あなたは旅先で“直視したくない現実”に出会ったことがありますか?
2025年10月現在、私はこれまでに9カ国を訪れました。
海外を旅するたびに、良くも悪くも、心を揺さぶる“カルチャーショック”に出会います。
訪問先の多くは東南アジアですが、どの国にも、いわゆる「物乞い」と呼ばれる人たちが一定数います。
現実を直視するのは精神的に過酷で、できればそのような光景は見たくないというのが本音です。
けれど、旅を続けていく上で、「自分の心とどう向き合うか」は避けて通れないテーマだと感じています。
私のスタンス|海外で物乞いに出会った時どうするか
海外で物乞いの人たちに出会っても、私は基本的に何もしません。現金も渡しません。
極端に言えば、何も感じないように努めています。気を抜くと、同情心があふれて苦しくなってしまうからです。
理由については、本文後半で触れます。
海外で目の当たりにした光景
障害のある方や生活困窮者を否定する意図はなく、旅先で実際に遭遇した事例としての「記録」です。
台湾(2017年)|台車に体を乗せて移動する男性を見た日
海外で受けたカルチャーショックは、初海外の台湾から始まりました。
日本人からは「台湾の原宿」とも呼ばれるような繁華街で、大通りは比較的きれいに整った街並みでした。
そこに、手と足のない男性が、台車に体を乗せて、這いつくばるようにして移動している姿を目にしました。
現地の人々は慣れているのか、誰も特に気に留める様子は見られませんでした。
日本では見たことのない光景で(少なくとも私の20数年の人生経験の中では)、当時はとても衝撃的でした。
あのレベルの方であれば、行政の保護下に置かれるべきではないのか?支援されるべき権利のある人ではないのか?そんな疑問が頭の中に渦巻きました。
タイ(2019年)|セーラー服姿で募金箱を持つ“落ち武者ヘア”の人
何を言っているのかと思われるかもしれませんが、事実をそのまま文字にしました。
顔全体が火傷のようにケロイド状になり、頭頂部が薄く周囲の髪が長い独特の髪形(俗に“落ち武者”と形容される髪形)という衝撃的な姿。
そのうえセーラー服を着て、木箱の上に立ち、手には募金箱。正直、男性なのか女性なのかも判別がつきません。
通りかかる欧米人の方々が、募金箱に次々とお金を入れていきます。
けれど、いくつかの理由から詐欺と見受けられる行為だと感じました。
当時、A駅の改札前でその光景を見かけたあと、乗り換えを経てB駅に到着すると、そこにもまったく同じ格好をした人物が立っていました。
1時間も経たないうちに、別の駅で再び遭遇する確率は低すぎます。つまり、「同じ格好をした人物が2人いた」と考えるほうが自然です。
顔は特殊メイク、髪はおそらくカツラ。A駅でもB駅でも、まったく同じ姿。
組織的に行われている可能性が高いと感じました。
インド①(2024年)|アグレッシブに稼ぎに出る“足のない男性”
かの有名なパハールガンジで、通りを見渡せるカフェに入りました。
上から通りを眺めていると、足のない男性が、手に靴を履かせて(この表現が正しいかは分かりませんが)、道行く観光客に声をかけていました。
随分、積極的に声掛けをしているなと思いました。
しばらく様子を見ていると、欧米人の男性が現金を手渡す場面が。ところがその直後、さらに何かを要求するような仕草をしています。
欧米人の男性は首を振り、そのまま立ち去りましたが、彼はしばらく後を追いかけていきました。
生活のためなのか、誰かに指示されているのか・・・。
考えさせられるものがありましたが、彼もまた“生きるために必死なのだろう”と感じました。
インド②(2024年)|推定3〜5歳の子どもに追われた日
10kg以上あるバックパックを背負って、インドのとある観光地へ向かっている途中のこと。
推定3〜5歳ほどの小さな子どもが、強烈なアンモニア臭とともに私の方へ駆け寄ってきました。
正直、頭を殴られたような衝撃でした。
おそらくこの子は、親から“物乞い”を教えられているのだと思います。
本人は強制されているとも思っていないのかもしれません。まだそこまで察することができる年齢ではないのだと思います。
しばらくの間、私たちの後をついてきました。
周囲を見渡すと、少し離れたところで、こちらの様子をうかがう大人たちの姿も。
子どもにお金を渡せば、次は自分にもよこせと、別の物乞いが押し寄せてくる。そんな空気が漂っていましたし、そのような体験談を事前に見聞きしていました。
私たちは、夫と二人の個人旅行。守ってくれる人はいません。
小さな子どもを前に心が痛みましたが、私たちも自分たちの身を守るため、前を向いて歩くしかありませんでした。
海外で受けたカルチャーショック👉️飲み残しをそのまま捨てる文化に驚いた話
子どもの頃にこの光景を見なくて良かった|親のエゴと現実のはざまで
海外に行くたびに思うのは、「子どもの頃にこの光景を知らなくて良かった」ということ。
私は大人になり、自分の意志で海外へ行っています。けれど、子どもの海外旅行はたいてい親の判断です。
幼い頃に“違う境遇で生きる人々”の姿を見せることを「教育」と捉える人もいるでしょう。
でも、それは子どもが望んでいることでしょうか。どこか親のエゴのようにも思います。
それほどまでに、海外で見た光景は強烈でした。
知人のタイ駐在員は「子どもは外を歩かせない。特に駅前には行かせない」と話していました。「見なくていいものもあるから」と。
大人でも目を背けたくなる現実はあります。それを子どもの頃に目の当たりにしていたら、私の場合は海外にまた行きたいと思える人生ではなかったかもしれません。
まとめ:カルチャーショックから学んだ「現実を見つめる力」
現金を渡すことは簡単ですが、それは一時しのぎにすぎません。
数日分の食費にはなるかもしれませんが、彼らの人生が変わるわけではありません。
もしかすると、背後には犯罪組織が関わっているかもしれません。これまでの旅の中でも、そう感じる場面に何度も出くわしました。
ただこれは、「日本人的感覚」なのかもしれません。
寄付文化のある国の方の感覚では「その時、一瞬だけでもその人達が幸福を感じれば良い」とする価値観もまたあるのだと思います。
日本もまた、諸外国と同じような時代を経て今があります。
今の恵まれている環境の中で生きられていることに、あらためて感謝したいと思いました。
正直、世界を見ても、私にできることはほとんどありません。変えたいという強い欲求も生まれません。
それでも、見たものを事実として受け止め、自分の中でどう考え、どう生きていくか。
その問いを、これからも大切にしていきたいと思います。